藤堂高虎の生涯Life of Todo Takao

藤堂高虎の生涯

藤堂高虎プロジェクト|藤堂高虎の生涯



藤堂高虎プロジェクト|藤堂高虎の生涯

弘治2年1月6日(1556年2月16日)、藤堂高虎が生まれました。歴戦の武将で何度も主君を変え、また築城の名手としても知られます。

高虎は弘治2年、近江国犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男に生まれました。幼名、与吉、通称、与右衛門。 13歳(15歳とも)の時に近江小谷城の浅井長政に仕えます。
元亀元年(1570)の姉川の合戦に15歳で初陣し、奮戦。しかし17歳の時に同輩を斬殺して出奔しました。以後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信長の甥・信澄と次々に主君を変え、天正4年(1576)に羽柴秀吉の弟・秀長に仕えて、ようやく腰を落ち着けます。

最初の禄高は300石でしたが、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経た頃には5000石、紀州の雑賀・根来攻めの功で1万石、さらに九州征伐の武功で2万石となりました。
天正19年(1591)に主君の秀長が病没すると、その猶子・秀俊(秀保)に仕えますが、文禄4年(1595)に秀俊も病没して主家が断絶。やむなく高虎は剃髪して、高野山に籠もります。
しかし高虎を豊臣秀吉が放っておかず、秀吉の直臣として、伊予宇和島に7万石を領し、さらに慶長の役の武功で1万石を加増されました。領地を接する伊予松山の加藤嘉明とは、仲が悪かったことで知られます。

そんな高虎が徳川家康と親しくなったのは、天正14年(1586)の頃からだったといわれます。
慶長3年(1598)に秀吉が没すると、高虎はなりふり構わず家康に恭順し、「家臣同様に扱ってほしい」と申し出た変わり身の早さには、眉をひそめる者も少なくありませんでした。しかし、そこには高虎なりの理屈がありました。「武士たる者、旗幟不鮮明にすべきでなく、常に己の立場を明らかにすべきだ」というものです。
確かに関ケ原前夜、誰もが他人の顔色を窺う中で、高虎は明確に徳川に従うことを示していました。

そして関ケ原。高虎は家康の内命を受けて、4人の西軍武将の内応を取り付けています。正午頃、松尾山の小早川秀秋が寝返った時、予測していた大谷吉継は慌てず、小早川の大軍を何度も押し返しますが、自分の配下にあった4将まで裏切ったことは想定外でした。その4将、すなわち脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保を調略によって寝返らせた男こそ、高虎です。これによってさしもの大谷隊も壊滅し、西軍の敗北は決定的になりました。この功により、高虎は伊予半国、20万石の大大名となります。

さらに慶長13年(1608)、家康は高虎を伊賀一国及び伊勢八郡に国替えし、しかも今治2万石は従前通りとしたので、総石高は22万9000石となりました。 これは将来の大坂方との戦いを睨んでのシフトで、伊賀からであれば木津川を下って1日で大坂に到着するのです。 そして慶長19年(1614)、大坂冬の陣が勃発すると、高虎は井伊直孝とともに先鋒を命じられ、翌年の夏の陣でも先鋒を務めました。夏の陣では八尾の戦いで、長宗我部盛親勢を相手に激闘を演じ、多くの家臣を失いますが、それもまた家康の信頼を深めることになります。

大坂の陣後、伊勢で5万石を加増され、弟・正高が与えられた領地も含めると、藤堂家の総石高は32万石余りとなりました。家康は高虎への信頼の証に、「今後、有事の際には藤堂を先手とせよ」と側近に命じています。また高虎は築城術にも長けており、高虎の縄張とされるものに、伊予今治城、伊予大洲城、伊予宇和島城、伊勢津城、伊賀上野城、丹波亀山城、丹波篠山城などがあります。その他にも、江戸城、名古屋城、和歌山城の天下普請にも参加しました。

ところで、高虎の若い頃の逸話として次のようなものがあります。主家を退転して牢人であった時、三河吉田宿にあてもなく来た時、空腹の余り、「三河餅」の茶店で、餅を20個も無銭飲食してしまいました。ところが店主の吉田屋彦兵衛は、高虎が只者でないと見たのか、「そんなにたくさん食べて頂けるとは商人冥利に尽きます。お代は頂きません」と言い、むしろ故郷への路銀を渡します。高虎は「一国一城の主になった時、必ずお返しする」と感謝しました。後に大大名となった高虎は、参勤交代の折にこの茶店に立ち寄り、「あの折の餅代とお礼だ」と言って、過分の小判を渡したといいます。 高虎は子孫にも、参勤交代の折は必ず吉田屋の店に寄り、餅を食すよう伝えたとか。講談などで、「藤堂高虎、出世の白餅」として知られる話です。ちなみに高虎の旗は白い三つの白餅。この時の餅とも、「城持ち」にかけたものともいわれます。

また、『名将言行録』にはつぎのようなエピソードが記されています。
関ケ原合戦後のこと、捕われた石田三成のもとを高虎が訪れました。もともと親しく交わっていたこともあり、高虎は「武士は相身互いと申す。勝敗は是非なきこと」と挨拶します。 その上で、「敵方から見て、我が陣で気のついたことがあれば今後のために承りたい」と三成に尋ねました。率直な物言いに三成も「されば先手の鉄砲頭の働きが十分でなく見えたのは、小身(禄高が少ない)のためではないか。小身と大身とでは、働きは随分違うものだ」と応えます。三成の言葉を聞いた高虎は、さっそく鉄砲頭を千石取りにしたといいます。
また高虎は、槍の勘兵衛こと渡辺勘兵衛を2万石で召し抱えました。これを聞いた加藤左馬助嘉明は、「和泉(高虎)は馬鹿なことをする。わしならば2万石で200石取りの侍を100人抱えるだろう。いかに槍の勘兵衛とて100人の侍に勝てるはずもない」と言います。すると高虎は「左馬助は物知らずじゃな。平侍の200人や300人が敷いた陣など、軍勢が怖れようか。ただ踏み潰して通るまでよ。ところがこれが、あの槍の勘兵衛が固めた陣と聞けばどうか。敵は肝を冷やすであろう。勘兵衛を抱える利はここにあるのだ」。




藤堂高虎プロジェクト|藤堂高虎の生涯

寛永4年(1627)、会津若松の蒲生忠郷が嗣子なく没したため、改易となりました。代わりに誰を若松城主とすべきか、幕府内で議論した際、高虎が進み出て言います。
「加藤左馬助しかおりますまい。彼の者、賤ヶ岳七本槍の一人にして、関ケ原、大坂の陣でも徳川家に忠節を尽くしました。律義者の左馬助ならば、どんな要地も任せられましょう」。 これを聞いた将軍徳川家光は、「足下と加藤嘉明はかねてより不和と聞いていたが、その私怨を捨てて、公儀のためを思う姿勢、なんと義にあつきことよ」と賞賛しました。
加藤嘉明は伊予松山20万石。会津40万石の太守となれば、石高は倍増することになります。この話を知った加藤は驚き、すぐに高虎のもとを訪ねます。

「わしらは朝鮮での戦功争い以来、交わりを断っていたが、おぬしは私怨を離れ、国のためにわしを推挙してくれたという。かたじけない。願わくばこれまでの諍いを水に流したい」。以後、二人は親交を結びました。

高虎は家臣に常々こう語っていたと言われます。「寝所を出るより、其日の死番と心得べく、箇様に覚悟して寝る故に物に動ずることなし」。
つまり朝起きた時、その日が自分の死ぬ日であるという覚悟をもって生きよ、という意味でしょう。また、こうも言っています。「小事は大事、大事は小事と心得べし。大事の時は、一門知音打寄り、談合する故に、大事にはならざるなり。小事は大事と言ふは、一言の義にて打果つるなり。然る故小事は大事と慎むべし」。
戦乱の世から泰平の世へ、極めて難しい時代を生き抜いた高虎の言葉は、現代にも通じるものがあるように感じられます。 寛永7年(1630)、没。享年75。




藤堂高虎の生涯

出石城 (1583年、天正11年)
大和郡山城 (1585年、天正13年)
京都聚楽第 (1586年、天正14年)※秀吉の命により縄張り
粉河城 (1587年、天正15年)※秀吉から紀伊粉河1万石を与えられ、猿岡山に城を築く
赤木城 (1589年、天正17年)
伏見城 (1594年、文禄3年)※秀吉の命により助工
宇和島城 (1596年、慶長元年)※宇和郡7万石の領主として起工
伊予大洲城 (1597年、慶長2年)※大洲1万石の加増を受け、城を築く
順天倭城 (1597年、慶長2年)※慶長の役で朝鮮に宇喜多秀家らと城を築く
膳所城 (1601年、慶長6年)※家康の命により築城助工および縄張り
甘崎城 (1601年、慶長6年)※大改修
灘城 (1601年、慶長6年)※大改修
今治城 (1602年、慶長7年)※伊予半国20万国の領主として起工
伏見城 (1602年、慶長7年)※修理助役
江戸城 (1606年、慶長11年)※幕府の命により江戸城大修理の縄張り
津城 (1608年、慶長13年)※伊勢・伊賀22万石、津城の大改築を行う
伊賀上野城 (1608年、慶長13年)※大改修
丹波篠山城 (1609年、慶長14年)※家康の命により縄張り
丹波亀山城 (1610年、慶長15年)※家康の命により普請の手伝い
二条城 (1619年、元和5年)※幕府の命により縄張り
和歌山城 (1619年、元和5年)※幕府の命により石垣工事
大坂城 (1620年、元和6年)※修復
淀城 (1623年、元和9年)※秀忠の命により普請の手伝い